人生にリハーサルなんかありはしない(140616)

 

親愛なるみなさん、おはようございます。今日もツイてます。
昨日は父の日でした。父の日にちなんで、父親としての生きざま
を見事に示したある人物のお話です。奥さんと2人のお子さんに
捧げた命の絶唱です。
人間の感性を目覚めさせる能力開発訓練を手掛け、プロテニスプ
レーヤーの松岡修造さんや大戸屋HD会長の三森久実さんら、こ
れまでに1万8千人もの各界のリーダーを導いてきた行徳哲男氏
が語ります。
「生きるということは一度しかない。リハーサルなんかありはし
ない。たった一度だけである」行徳哲男(日本BE研究所所長)
『致知』1986年7月号特集「なぜ燃え続けるのか」より
もう20年以上前の特集記事です。読ませて頂きましたが自分の
小ささが歯がゆいくらいです。
———————————————————-
人の出会いも一期一会であり、今を完全に燃焼し尽くした時、人
間には希望や夢や野望やロマンが生まれてくるのである。
私にこんなすさまじい教えを教えてくれた1人の若者がいた。今
から7年前の1月21日、富山県の砺波(となみ)という町で、ガ
ンで亡くなった井村和清さんである。
彼は医師であったが、右膝に巣くった悪性腫瘍の転移を防ぐため、
右脚を切断した。しかし、その甲斐もなく、腫瘍は両肺に転移し
ていた。そして昭和54年1月、亡くなったのである。享年31
歳であった。
彼は医師であったから、自分の病状をよく知っていた。だから彼
には明日はなかった。その彼が遺書を残している。その遺書は
『ありがとう、みなさん』と題されている。
彼は2人の子供に「心の優しい、思いやりのある子に育ってほし
い」と書き、
「私は今、熱がある。咳きこんで苦しい。私はあと、いくらもお
前たちのそばにいてあげることができない。だから、お前たちが
倒れても手を貸してあげることができない。お前たちは倒れても
倒れても自分の力で立ち上がるんだ。お前たちがいつまでも、い
つまでも、幸せでありますように。雪の降る夜に父より」
そしてまた彼は、こんな遺書も残していた。
「ようやくパパと言えるようになった娘と、まだお腹にいるふた
りめの子供のことを思うとき、胸が砕けそうになります。這って
でももう1度と思うのです。しかし、これは私の力では、どうす
ることもできない。
肺への転移を知った時に覚悟はしていたものの、私の背中は一瞬
凍りました。その転移巣はひとつやふたつではないのです。レン
トゲン室を出るとき、私は決心していました。歩けるところまで
歩いていこう。
その日の夕暮れ、アパートの駐車場に車を置きながら、私は不思
議な光景を見ていました。世の中がとても明るいのです。スーパ
ーへ来る買い物客が輝いてみえる。走りまわる子供たちが輝いて
みえる。犬が、垂れはじめた稲穂が、雑草が、電柱が輝いてみえ
るのです。
アパートへ戻ってみた妻もまた、手をあわせたいほど尊くみえま
した」
「郷里へ戻ると父が毎朝、近くの神社へ私のために参拝してくれ
ていることを知りました。
友人のひとりは、山深い所にある泉の水を汲み、長い道程を担い
できてくれました。
『これは霊泉の水で、どんな病気にでも効くと言われている。俺
はおまえに何もしてやれなくて悲しいので、おまえは笑うかもし
れないが、これを担いできた』
彼はそう言って、1斗(18リットル)以上もありそうな量の水を
置いてゆきました。
また私が咳きこみ、苦しそうにしていると、何も分からぬ娘まで
が、私の背中をさすりに来てくれるのです。みんなが私の荷物を
担ぎあげてくれている。ありがたいことだと感謝せずにはいられ
ません。
皆さん、どうもありがとう。
這ってでももう1度戻って、残してきた仕事をしたいと願う気持
ちは強いのですが、咳きこむたびに咽喉をふるわせて出てくる血
液を見ていますと、もはやこれまでか、との心境にもなります。
どうも、ありがとう。」
日一日と悪化する病気に、もう猶予はできない。ここまでくれば、
いつ机に向かうことができなくなるかもしれない。とにかく『あ
とがき』を書くことにした。
「頼みがあります。もし私が死にましたら、残るふたりの子供た
ちを、どうかよろしくお願い致します。私が自分の命の限界を知
ったとき、私にはまだ飛鳥ひとりしか子供はありませんでした。
そのとき、私はなんとしても、もうひとり子供が欲しいと思った
のです。それは希望というよりは、むしろ祈りのようなものでし
た。
祈りは通じ、ふたりめの子供が妻の胎内に宿ったのです。妻はこ
れはあなたの執念の子ね、と言って笑いましたが、私はどうして
も、妻と飛鳥を、母ひとり子ひとりにしたくなかったのです。
3人が力を合わせれば、たとえ私がいなくても、生きぬいてゆけ
る。妻がもし艱難に出逢うことがあっても、子供たちふたりが心
を合わせれば、細い体の妻をきっと助けてくれる。そう信じてい
ます」
そして、彼の死後、「誰よりも悲しむであろう父母を慰めてやっ
て下さい」と頼み、
「ありがとう、みなさん。世の中で死ぬまえにこれだけ言いたい
ことを言い、それを聞いてもらえる人は滅多にいません。その点、
私は幸せです。ありがとう、みなさん。
人の心はいいものですね。思いやりと思いやり。それらが重なり
あう波間に、私は幸福に漂い、眠りにつこうとしています。
幸せです。
ありがとう、みなさん、
ほんとうに、ありがとう」
1人の若者が生きることの大事さを教えてくれた生の記録である。
彼は最後の最後まで、人間万歳を歌いあげたのである。最後の最
後まで「ありがとう」をいい続けたのである。
生きるということは1度しかない。リハーサルなんかありはしな
い。たった1度だけである。どうか、この「生きる」ことを大事
に大事に生き抜いていただきたい。
———————————————————-
人生にはリハーサルなんかありはしない。壮絶な人生を生き抜い
た人だからこその言葉ですね。今日もリハーサルなしの一日。ハ
リキッテ参りましょう。

親愛なるみなさん、おはようございます。今日もツイてます。

 

昨日は父の日でした。父の日にちなんで、父親としての生きざま

を見事に示したある人物のお話です。奥さんと2人のお子さんに

捧げた命の絶唱です。

 

人間の感性を目覚めさせる能力開発訓練を手掛け、プロテニスプ

レーヤーの松岡修造さんや大戸屋HD会長の三森久実さんら、こ

れまでに1万8千人もの各界のリーダーを導いてきた行徳哲男氏

が語ります。

 

「生きるということは一度しかない。リハーサルなんかありはし

ない。たった一度だけである」行徳哲男(日本BE研究所所長)

『致知』1986年7月号特集「なぜ燃え続けるのか」より

 

もう20年以上前の特集記事です。読ませて頂きましたが自分の

小ささが歯がゆいくらいです。

 

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人の出会いも一期一会であり、今を完全に燃焼し尽くした時、人

間には希望や夢や野望やロマンが生まれてくるのである。

 

私にこんなすさまじい教えを教えてくれた1人の若者がいた。今

から7年前の1月21日、富山県の砺波(となみ)という町で、ガ

ンで亡くなった井村和清さんである。

 

彼は医師であったが、右膝に巣くった悪性腫瘍の転移を防ぐため、

右脚を切断した。しかし、その甲斐もなく、腫瘍は両肺に転移し

ていた。そして昭和54年1月、亡くなったのである。享年31

歳であった。

 

彼は医師であったから、自分の病状をよく知っていた。だから彼

には明日はなかった。その彼が遺書を残している。その遺書は

『ありがとう、みなさん』と題されている。

 

彼は2人の子供に「心の優しい、思いやりのある子に育ってほし

い」と書き、

 

「私は今、熱がある。咳きこんで苦しい。私はあと、いくらもお

前たちのそばにいてあげることができない。だから、お前たちが

倒れても手を貸してあげることができない。お前たちは倒れても

倒れても自分の力で立ち上がるんだ。お前たちがいつまでも、い

つまでも、幸せでありますように。雪の降る夜に父より」

 

そしてまた彼は、こんな遺書も残していた。

 

「ようやくパパと言えるようになった娘と、まだお腹にいるふた

りめの子供のことを思うとき、胸が砕けそうになります。這って

でももう1度と思うのです。しかし、これは私の力では、どうす

ることもできない。

 

肺への転移を知った時に覚悟はしていたものの、私の背中は一瞬

凍りました。その転移巣はひとつやふたつではないのです。レン

トゲン室を出るとき、私は決心していました。歩けるところまで

歩いていこう。

 

その日の夕暮れ、アパートの駐車場に車を置きながら、私は不思

議な光景を見ていました。世の中がとても明るいのです。スーパ

ーへ来る買い物客が輝いてみえる。走りまわる子供たちが輝いて

みえる。犬が、垂れはじめた稲穂が、雑草が、電柱が輝いてみえ

るのです。

 

アパートへ戻ってみた妻もまた、手をあわせたいほど尊くみえま

した」

 

「郷里へ戻ると父が毎朝、近くの神社へ私のために参拝してくれ

ていることを知りました。

 

友人のひとりは、山深い所にある泉の水を汲み、長い道程を担い

できてくれました。

 

『これは霊泉の水で、どんな病気にでも効くと言われている。俺

はおまえに何もしてやれなくて悲しいので、おまえは笑うかもし

れないが、これを担いできた』

 

彼はそう言って、1斗(18リットル)以上もありそうな量の水を

置いてゆきました。

 

また私が咳きこみ、苦しそうにしていると、何も分からぬ娘まで

が、私の背中をさすりに来てくれるのです。みんなが私の荷物を

担ぎあげてくれている。ありがたいことだと感謝せずにはいられ

ません。

 

皆さん、どうもありがとう。

 

這ってでももう1度戻って、残してきた仕事をしたいと願う気持

ちは強いのですが、咳きこむたびに咽喉をふるわせて出てくる血

液を見ていますと、もはやこれまでか、との心境にもなります。

どうも、ありがとう。」

 

日一日と悪化する病気に、もう猶予はできない。ここまでくれば、

いつ机に向かうことができなくなるかもしれない。とにかく『あ

とがき』を書くことにした。

 

「頼みがあります。もし私が死にましたら、残るふたりの子供た

ちを、どうかよろしくお願い致します。私が自分の命の限界を知

ったとき、私にはまだ飛鳥ひとりしか子供はありませんでした。

 

そのとき、私はなんとしても、もうひとり子供が欲しいと思った

のです。それは希望というよりは、むしろ祈りのようなものでし

た。

 

祈りは通じ、ふたりめの子供が妻の胎内に宿ったのです。妻はこ

れはあなたの執念の子ね、と言って笑いましたが、私はどうして

も、妻と飛鳥を、母ひとり子ひとりにしたくなかったのです。

 

3人が力を合わせれば、たとえ私がいなくても、生きぬいてゆけ

る。妻がもし艱難に出逢うことがあっても、子供たちふたりが心

を合わせれば、細い体の妻をきっと助けてくれる。そう信じてい

ます」

 

そして、彼の死後、「誰よりも悲しむであろう父母を慰めてやっ

て下さい」と頼み、

 

「ありがとう、みなさん。世の中で死ぬまえにこれだけ言いたい

ことを言い、それを聞いてもらえる人は滅多にいません。その点、

私は幸せです。ありがとう、みなさん。

 

人の心はいいものですね。思いやりと思いやり。それらが重なり

あう波間に、私は幸福に漂い、眠りにつこうとしています。

 

幸せです。

 

ありがとう、みなさん、

 

ほんとうに、ありがとう」

 

1人の若者が生きることの大事さを教えてくれた生の記録である。

彼は最後の最後まで、人間万歳を歌いあげたのである。最後の最

後まで「ありがとう」をいい続けたのである。

 

生きるということは1度しかない。リハーサルなんかありはしな

い。たった1度だけである。どうか、この「生きる」ことを大事

に大事に生き抜いていただきたい。

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人生にはリハーサルなんかありはしない。壮絶な人生を生き抜い

た人だからこその言葉ですね。今日もリハーサルなしの一日。ハ

リキッテ参りましょう。

 


 

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