幸福とは与えられるものではなく、実践して造り上げるもの (141101)

親愛なるみなさん、おはようございます。今日もツイてます。

今週の倫理です。
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ひと晩たって、朝起きてみたら金持ちになっていたという。土地
が売れた。宝くじに当たっていた。遺産がころがりこんできた。
その他、何もせず儲けたと、人から羨ましがられるようなことは
多い。

「いいことをしやがったなあ」「うらやましいわねえ」だが、ほ
んとうにそうであろうか。それ相当のすべきことをやり、働いた
結果として当然の成果を得た場合は、幸福である。しかし、何も
せず、棚からボタモチ式に与えられた幸福は、まず長続きしない。

「ただで貰うことほど高くつくものはない」という言葉があるが、
労せずして得た金銭は、身につかない。それだけではなく、かえ
って身をほろぼすもとになりかねない。

土地が道路になり、国や自治体から多額の金を貰ったりした家庭
で、金銭財産をめぐるトラブルが続き、不幸のドン底に落ちたと
いうような事実は、いくらも見聞することができる。

幸福というものは、自分で造りあげるところに値打ちがある。人
から貰った幸福は、ほんとうの幸福とはいえない。親から貰った
健康とか、よい性質といったようなものは、ありがたいにはちが
いないが、それらを貰っていて「自分はほんとうに幸福だなあ」
といった喜びにひたれるか。

いつも健康な人は健康の幸福をほんとうには知らないという。自
分が病気になるとか、人が苦しんでいるのを見て〈気の毒だ。そ
れにひきかえて自分は何と幸福なのだろう〉と、あらためて親の
ありがたさが自覚できる。

生まれた時から金持ちであると、金の尊さ、ありがたさがわから
ないので、ほんとうに幸福とはいえないのだ。もっと端的にいう
と「実践のないところには幸福はない」さらには「実践せずして
救いはない」のである。通俗的には「額に汗せずして真の幸福は
味わえない」ということだ。

ここにいう実践とは政治的、経済的、芸術的、学問的、家庭的、
宗教的、倫理的、その他にわたる自らの実行のことである。

実行も何もしないで政治家としての成功はない。学問もせずに学
者にはなれぬ。ピアノの練習もせずに、ピアニストにはなれぬ。
芸術の修練をしない芸術家はいない。また、ろくに信仰心ももた
ずに、宗教では救われないとこぼす人も多い。

念仏も唱えず、題目もあげず、行も何らしないで「宗教ではダメ
だ」などといっている。

倫理道徳は堅苦しくて苦手であるとか、また徳福一致の〝倫理〟
でも救われないとか、いい加減なことをいう人があるが、そうし
た人たちは、いったい何を実践したのか。

親を大切にするとか、配偶者を心から愛するとか、わが子を正し
くそだてるとか、そうしたことに、どれほどまごころを傾けたの
か。

「いくらやっても」というが、その「いくら」とは何をいうのか。
徳福一致の〝倫理〟とは、その実践にこそ意義がある。
(月刊『新世』一九八七年九月号より)
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今日から11月。早いもので今年も余すところ2ヶ月。この10
ヶ月何を実践してきたのか。少し振り返りながら、今年を締めく
くる2ヶ月にしていきましょう。


 

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