慣れた時こそ (160304)

親愛なるみなさん、おはようございます。今日もツイてます。

今週の倫理より
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知覚がにぶること、ぼんやりすること、もうろくすることを「ぼ
ける」と言う。倫理ボケとは、倫理について知覚がにぶり、ぼん
やりした状態にあることで、これは政治、経済、その他について
もひろく言える。

新聞など、毎日のように倫理という言葉が出てくる。政治倫理、
生命倫理、医療倫理、経済倫理、教育倫理、道義的責任、その他
一日のうち、どこかに倫理(道徳、道義)という言葉の載ってい
ない日はない。しかし、それだけ倫理的になっているか、どうか。
あまり多く使われるので、ボケているのではないか。「またか」
というわけで、新聞に書かれようが、テレビ、ラジオなどでいく
ら叫ばれようが平気になってしまう。

いわゆる倫理運動をおこなっていると、そして、倫理という言葉
がやたらに多いと、人によってはその言葉になれてしまい、無神
経、無感動になったりする。「ああ、また倫理か」といったよう
な、馬鹿にしたようなぐあいである。まさに「倫理擦れ枯らし」
である。

実践はやらないでボケッとしている。だから実践体験も出ない。
そして他人の批判ばかりしている。自己自身への反省はない。い
わゆる〝倫理〟の経歴が古い人ほど、そうしたボケになりやすい。

真理をある面において追究するのが学問であるが、学問ボケとい
うのがある。定期的に学校にゆき、教壇に立ち「学問、学問」と
言っていると、いつしか慣れて新鮮味を失い、追究心がうすらい
でゆく。つまり自分の学問にボケが始まったのである。

学問、学問とあまり言わない人の中にも、真の学者がいる。本居
宣長、南方熊楠などはその道の学校すら出ていない。しかし生涯
を通じて、学問に打ち込んだのであった。

総じて先生と人からも言われ、自分もそう思っている人は危険で
ある。教える立場からの反省として見れば、だいたい先生と呼ば
れるだけの資格のある人は、厳密に言うといないのだ。みんな生
徒であり、学生なのである。「先生」と呼ばれたら、内心ふるえ
がくるようでなくてはいけない。いい気になっていると謙虚さを
なくし、先生擦れ、先生ボケが始まるからである。

前にもどって、生活倫理を学ぼうとし、また学んでいる人は、す
ぐにこの倫理ボケが始まることを警戒する要がある。新鮮さを感
じなくなったとき、感動がうすくなったときが、あぶない。先輩
とか先生と言われだすと、いよいよ危ない。

あの孔子でさえ、孔夫子と呼ばれることを喜ばず、「まだ生(こ
の世)のことさえよく知らないのに、どうして死のことを知って
いようか」と、あくまで謙虚であった。

「論語読みの論語知らず」と言うが、「論語」の内容など、同じ
ところを何度読んでも味わいはつきないと思う。「論語」を、一
回りか二回り走り読みをして、「もうわかった」などと感激をな
くしたときが「論語知らずの論語ボケ」となる。

同じように「『万人幸福の栞』読みの『栞』知らず」で、『栞』
ボケの人が、いつでも増えつつあるのではないか。自分自身の内
容をしっかり見つめ直そう。
(月刊『新世』一九九三年八月号より)
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いわゆる慣れとも言われます。緊張感を持って、常に新鮮で、謙
虚に取り組んで行きたいものです。


 

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